龍宮神社

歴史と由緒

御祭神

DEITY

綿津見神わたつみのかみ

伊耶那岐神(いざなぎのかみ)の禊(みそぎ)によって生まれました。
底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の三柱(神様は柱で数えます)で、「綿津見神」と総称され、「海神」とも表記されます。
山彦で知られる火遠理命(ほおりのみこと)が訪問した際、娘の豊玉毘売(とよたまひめ)と結婚させ、火遠理命が無くした兄の釣り針を探すのを助けて見つけ出し、その帰る際には、潮の干満を支配する塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおふるたま)を授けて、兄を懲らしめる方法を教えました。
ワタツミの名義については、「ワタ」は海を意味し、「ミ」は霊格を表します。海の神霊の意と解されます。
 海の神である綿津見神は、海の生き物を統括し、海の干満を掌る呪力を有しているように、海の世界の支配者として考えられています。

ご利益

  • 豊漁
  • 航海安全
  • 漁業繁栄
  • 水難除け

豊受姫神とようけひめのかみ

伊耶那美神(いざなみのかみ)が病み臥した際に生まれた和久産巣日神(わくむすびのかみ)の子神。その名義は、「豊」は美称とされ、豊穣の意とする説や、神的なものに冠する称辞とする説があります。「受(宇気)」はウカに同じく、食物あるいは稲の意とされています。
豊受姫神(豊宇気毘売神)は、稲霊、すなわち食物のうち稲に限定された神格だとする見方もあります。伊耶那美神の排泄物・嘔吐物から生まれた神々を農耕の生産過程と解する立場においては、その最後に、生産の神と考えられる和久産巣日神の子として、食物(稲)の霊である豊宇気毘売神が出現するのは、生産の成果である穀物(稲)の実りを表象しているとも言われます。
雄略天皇の御神託により、天照大神のお食事を共にする神様として、伊勢神宮外宮の祭神として祀られています。

ご利益

  • 五穀豊穣
  • 商売繁盛
  • 開運厄除け

大毘古命おおびこのみこと

第8代天皇・孝元天皇の第一皇子。開化天皇と少名日子名建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)の同母兄で、 垂仁天皇の外祖父に当たります。
北陸道を主に制圧した四道将軍の一人。記紀によると、崇神天皇の詔により四道将軍の一人として北陸地方に派遣され、土着の豪族たちを平定し大和朝廷の基礎を築きました。またこの出陣の道中、大彦は不吉な詩を歌う不思議な少女に会ったので、引き返してこのこと報告し、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)に占わせると、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)とその妻の吾田媛(あたひめ)の謀反を告げるものでした。謀反は起こりましたが、大毘古命は彦国葺(ひこくにふくのみこと)と共に武埴安彦を討ちとり、吾田媛は吉備津彦命(きびつひこのみこと)が討ってこれを鎮圧しました。

ご利益

  • 勝運
  • 武運長久
  • 交通安全
  • 健康長寿

大物主神おおものぬしのかみ

ご祭神は国造りの神様として、農業、工業、商業すべての産業開発、尊崇されています。そして、崇神天皇の御代に大流行した疫病をご祭神が鎮めたこと、杜氏の高橋活日命(たかはしのいくひのみこと)がご祭神の神助で美酒を醸したことから、医薬の神様や酒造りの神様として広く信仰されました。祭神の御名、「大いなる物の主」はすべての精霊を統治するという意味をあらわし、災をなす精霊をも鎮めるという霊威から、厄除け・方位除けの神様としても厚く敬われています。
大物主神は、水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造りなどの神様として篤い信仰を集めています。
大物主大神を厚く敬った「崇神天皇」は、神に捧げる御酒を造るために高橋邑の活日(いくひ)に担当させました。
活日は酒造りの杜氏の祖先にあたる人です。そして活日は、一夜にして味の良い美味しいお酒を醸したそうです。オオモノヌシへの祭りが行われた後の酒宴で、活日は御酒を天皇に捧げて
「この神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」
(この神酒はわたしが造った神酒ではありません。倭の国をお造りになった大物主大神が醸されたお酒です。幾世までも久しく栄えませ、栄えませ。)
という歌を詠みました。

ご利益

  • 勝運
  • 武運長久
  • 交通安全
  • 健康長寿

桓武天皇かんむてんのう

第50代の天皇
737年、光仁天皇の第一皇子として生まれ、781年に天皇に即位しました。
奈良時代の仏教政治の腐敗を取り除くため、僧侶の不法を取り締まり、最澄や空海の説く新仏教を保護しました。また、律令政治の再建を目指し、班田収授の励行、勘解由使(かげゆし)の設置を行いました。
平城京から長岡京を経て、794年に平安遷都を行い、在位25年の間に律令を正して難民を救済し、文教を興しよく内政を整えられるとともに広く海外とも交易して大いに我が国の発展に努められました。以来京都は1000年の間、日本の国都として栄えてきたのです。

ご利益

  • 立身出世
  • 商売繁盛
  • 開運厄除
  • 学業成就
  • 企業繁栄

社殿

SHRINE

現社殿は大正15年に組織された造営会の下で改築に着手し、昭和16年に竣工したものです。社殿は神明造で、拝殿は桁行3間梁間3間の切妻造平入の正面中央間に梁間1間向切妻造の向拝を付した形態。屋根はともに銅板葺で「龍宮神社」の御神額には、龍神の一刀彫りが施されています。

大床の階段は、1段目が螺鈿(らでん)を施した御影石、2段目以降は1本ものの黒檀(こくたん)で作られており、神様が御鎮座するにふさわしい御本殿です。

オンコの木

平成22年に麻生太郎氏が龍宮神社に正式参拝に来られました。
麻生太郎氏は、戊辰戦争時代の明治政府軍中心的人物である“大久保利通氏”の子孫であり、龍宮神社は旧幕府軍の総大将“榎本武揚公”が建立された神社です。
榎本武揚没後100年記念祭の時に、自民党幹事長であった麻生太郎氏が、「100年目の仲直り」とおっしゃって、直々に参拝され、オンコの木を植樹されました。
麻生太郎氏は正式参拝された一ヶ月後に内閣総理大臣になられたため、昇り龍のごとく運気栄える龍宮の神様のご利益とも言われております。

榎本武揚

TAKEAKI ENOMOTO

幕末・明治に活躍し、龍宮神社を建立した人物です。
明治維新において、新政府軍と旧幕府軍の最後の戦いである箱館戦争では、旧幕府軍の総大将である榎本武揚は、敗戦の責任を自ら取って牢獄に入ります。しかし榎本武揚の捕虜に対する紳士的な扱いや、肌身離さず持っていた「海律全書」が戦禍で失われるのを防ぐために敵軍に送るなど、戦いの中においても尊敬できる人物と考えていた新政府軍大将の黒田清隆が、丸坊主となり助命懇願したため、出獄を許されました。その後、類いまれなる能力を買われ、新政府のもとで大臣を歴任、駐露特命全権公使として樺太・千島交換条約を締結し、日本のために粉骨砕身されました。その中で、蝦夷共和国の設立を掲げた、思い入れ深い北海道で、天然の良港を持つ小樽が北海道貿易の中心になると確信し、開発に先立ち人々の心の支えとなる神社を建立しました。それが龍宮神社です。

また、良質の石炭を採掘する幌内炭鉱の積出港として小樽こそふさわしいと考え、北前船の拠点ともしました。そして後の北海道長官となる北垣国道と共に20万坪の国有地払い下げを受け、北辰社という会社を作り積極的に小樽の土地開発を行って、北海道と小樽市の発展に多大な寄与をされました。
神社が建立された場所は、元来アイヌ民族の祭場であり、「イナウ」を立てて祭事を行っていました。「イナウ」とは木片を削って祭具として用いたものであり、アイヌ民族にとって「神への捧げ物」や「神霊の依代」などを意味します。神社周辺を稲穂(いなほ)町と呼ぶのは「イナウ」に由来しています。

幕末・明治に活躍し、龍宮神社を建立した人物です。
明治維新において、新政府軍と旧幕府軍の最後の戦いである箱館戦争では、旧幕府軍の総大将である榎本武揚は、敗戦の責任を自ら取って牢獄に入ります。しかし榎本武揚の捕虜に対する紳士的な扱いや、肌身離さず持っていた「海律全書」が戦禍で失われるのを防ぐために敵軍に送るなど、戦いの中においても尊敬できる人物と考えていた新政府軍大将の黒田清隆が、丸坊主となり助命懇願したため、出獄を許されました。その後、類いまれなる能力を買われ、新政府のもとで大臣を歴任、駐露特命全権公使として樺太・千島交換条約を締結し、日本のために粉骨砕身されました。その中で、蝦夷共和国の設立を掲げた、思い入れ深い北海道で、天然の良港を持つ小樽が北海道貿易の中心になると確信し、開発に先立ち人々の心の支えとなる神社を建立しました。それが龍宮神社です。
また、良質の石炭を採掘する幌内炭鉱の積出港として小樽こそふさわしいと考え、北前船の拠点ともしました。そして後の北海道長官となる北垣国道と共に20万坪の国有地払い下げを受け、北辰社という会社を作り積極的に小樽の土地開発を行って、北海道と小樽市の発展に多大な寄与をされました。
神社が建立された場所は、元来アイヌ民族の祭場であり、「イナウ」を立てて祭事を行っていました。「イナウ」とは木片を削って祭具として用いたものであり、アイヌ民族にとって「神への捧げ物」や「神霊の依代」などを意味します。神社周辺を稲穂(いなほ)町と呼ぶのは「イナウ」に由来しています。